17:28 09-12-2025
黒海の無酸素層と硫化水素の脅威——「死の帯」の科学と未来、海洋学的背景と沿岸への影響、上昇する境界と対策
© Ratnikov S.S.
黒海の無酸素層と硫化水素が生む「死の帯」を詳説。混ざらない化学躍層の仕組み、1927年の海面発光、汚染と気候変動による境界上昇の証拠、漁業や沿岸経済への影響、湿地再生など実効的対策まで。成層の安定化や鉛直混合の弱化、深層の無生域と難破船保存の背景も解説。地域の持続可能性に直結する現状を、最新研究とデータで伝えます。
黒海沿岸は、夏になるといつもの休暇のリズムに戻る。砂浜は日光浴を楽しむ人でいっぱいになり、プロムナードには笑い声が響く。とうもろこしや甘いお菓子を売る行商が行き交い、海辺は活気に満ちる。賑わいのただ中に立っていると、その水平線の向こうにある現実をつい忘れてしまいそうになる。
だが、その穏やかな光景の背後には、世界の海でもほとんど類を見ない仕組みが隠れている。海の体積の約90%には酸素がない。深い海底では生命が生きられず、硫化水素がたまり続ける。その量は数十億トン規模にのぼるという。
研究者たちは、この無酸素の帯を地域でもきわめて特異で、なおかつ厄介な自然現象だと表現する。表面の美しさは、ときに複雑な素顔を覆い隠す——それを思い出させる層だ。
海が湖だったころ
およそ7000年前、黒海は淡水の湖だった。水位はずっと低く、古代の人々が岸辺に暮らしていた。その後、氷河が解け、世界的に海面が上昇する。地中海が自然の堰を破り、ボスポラス海峡を通って塩分を含む海水が湖へとなだれ込んだ。
上昇は急激だった。地質学者の推定では、1日に最大15センチのペースで水位が上がったという。淡水に適応した生物は死に、海底へ沈降。酸素のない環境で分解され、その後の硫化水素帯の土台ができあがった。一部の歴史家は、この劇的な変化を聖書にある大洪水の物語と結びつける。
ひとつの海に二つの顔
黒海の構造は独特だ。上層、だいたい水深150〜200メートルまでは酸素が豊富で、魚やクラゲ、プランクトンが暮らす。その下は別世界。塩分が高く、温度は低く、酸素はない。そこにいるのは有機物を分解して硫化水素を生み出す細菌だけだ。両者の境目である化学躍層(ケモクライン)は非常に鋭く、生の世界と死の世界を分ける線のようにも感じられる。
なぜ層は混ざらないのか
鍵は密度にある。重くて塩辛い深層水は動かず、より淡い表層水はその上にとどまる。地形も分離を固定化する。黒海が外海とつながるボスポラス海峡は浅く、最深部でも約27メートルしかない。これほど大きな海盆に対して、あまりに細い首が、海水の大規模な入れ替わりを妨げている。海面の水が海底に達するには、数世紀単位の時間がかかると海洋学者は見る。
危険な層を育てる細菌
深海で生き延びられるのは硫酸還元菌だけだ。彼らは硫酸塩をエネルギー源として利用し、腐卵臭で知られる硫化水素を放出する。密度は圧倒的で、水1ミリリットルあたり最大で100万細胞にも達するという。分解は止まらない。だから硫化水素の層は、少しずつ広がり続ける。
硫化水素が危険な理由
硫化水素は毒性が強く、作用が速い。高濃度では呼吸麻痺を引き起こす。少量でも刺激があり、頭痛を誘発し、嗅覚を鈍らせる——この厄介な性質がガスの発見を遅らせ、危険性を増す。自然由来のものを含め、こうしたガスが放出され悲劇を招いた例は歴史に記録されている。
海が「燃えた」日
最も衝撃的な出来事は1927年だ。クリミア地震ののち、沿岸の人々は海面上に炎の柱が立つのを目にした。研究者の説明では、硫化水素が一気に海面へ噴き上がり、酸素と反応して発光した可能性が高い。その際にはメタンも同時に上昇し、現象を増幅したとみられる。局所的な出来事ではあったが、海の均衡がいかに脆いかを突きつけた。
硫化水素の境界は上昇している
この数十年の調査は、見過ごせない傾向を示している。いわゆる「死の帯」がゆっくりと上ににじみ出しているのだ。川から流れ込む汚染によって、酸素のある上層は薄くなる。栄養塩が過剰になれば藻類が大発生し、それが死ぬと有機物が海底へ沈み、細菌の餌になる。結果として硫化水素の生産が増える。さらに気候の変化が層の安定を強め、鉛直混合を弱めている。この境界の静かな上昇は、珍現象というより警鐘として受け止めるほうが妥当だろう。
命は上層にしかない
こうした構造のため、黒海の生態系は他の海域と比べて貧弱だ。深層は完全な無生域である。一方で、無酸素環境は数世紀前に沈んだ難破船を保存してきた。酸素がないため、木材も金属も分解の速度が著しく遅くなるからだ。
海の行方
海洋学者は複数のシナリオを想定している。最も起こりやすいのは、酸素のある上層がさらに薄くなる展開だ。漁業や沿岸の経済に影響が及ぶ。全海域的な大規模放出のような事態は可能性こそあるが、発生確率はきわめて低いと考えられている。それでも、地震の際に成層が乱れ、局所的な異変が起きる可能性は排除できない。流れを緩める手立てはある。汚染の削減、下水処理の改善、そして湿地やリマンといった自然のフィルターを再生することだ。
長い記憶と複雑な設計をもつこの海は、周囲で起きるすべてに反応する。そして今は、とりわけ敏感な時期にある。黒海のコンディションは、地域の生態の安定に直結する。汚染源をどれだけ的確に抑え、自然の働きを後押しできるか——それが沿岸の未来を左右する。問われているのは、海が応えるかどうかではない。私たちが、手遅れになる前に気づけるかどうかだ。